今日は、とりとめのない、そして、まとまりのない話だ。
我が家には、年長児の双子がいる。
兄は、ADHD疑いで、
弟は、自閉症スペクトラム障害である。
育児をしていると、子どもの頃の自分と我が子とをよく比較してしまう。
例えば、私は、
保育所時代には、
平仮名が読めていたし、
おむつはしていなかったし、
水疱瘡になったときは、何日も自宅で1人で寝ていた(両親とも仕事へ)。
幼稚園時代には、
足し算をさせられ、
毎日ではないものの、お風呂には1人で入り、
園には、毎日遅刻して、1人で歩いて行った。
我が子と異なり、リバーシ(オセロ)のルールは理解できていたし、
関心事は、チョウチョ結びをマスターすることだった。
まあ、結構ほったらかし目の子ども時代だったと思う。
我が子は?
というと、まったく異なる子ども時代を生きている。
私はできていましたけど??というようなことだらけだ。
寒いこの時期、よく思い出すことがある。
保育所時代の私は、冬になると必ず手の甲に赤切れができて、ひび割れた皮膚から赤い肉が見えていた。痛くてたまらないのだが、親に訴えるといった発想はまるでなく、ただ耐えるのみだった。
もし、自分の子どもに赤切れなんてできようものなら、クリームに手袋にそれはそれは手厚く対処するに違いない。気づかない、あるいは放置するなどということはありえないことだ。子どもの側だって「痛い」とすぐに訴えてくるに違いない。
私は、「親が助けてくれる」という概念がまったくない子どもだった。親は仕事で精一杯の日々で、私のことなど細かく見てはいられなかったのだ。
「自分のことは自分で」
が可能なことならよいのだが、子どもの力ではどうしようもできないことの数々が、私を困らせ、不安の種をまき、育てた。
靴底がすり減って穴があいた、
秋になって半袖では寒い、
明日エプロンが必要なのだが持っていない、
・・・・・。
大変に困っているのだが、親に言って何とかしてもらうという発想はいつもなかった。
親の放置の下、幼少期から、自己決定と自由を好み、支配を嫌った。助けてもらう概念もなければ、人を助ける概念もない。協調性には著しく欠けていた。
自由気ままな、保育所時代(おそらく2歳)は、給食時にランチルームに集まらず、いつも遅刻。罰として、押し入れの上段に入れられ、他の子どもがご飯を食べる様子を眺めていた。
今なら問題になりそうな躾?だ。
大人になった現在、相変わらず協調性にはかけるものの、自分でも驚くくらい他力本願な人間へと変貌した。
夫には、よく「虫女」と言われる。他に「機械」だとか、「マニュアル人間」だとか、「サイボーグ」だとか・・・、何にせよ、私には「虫」のように、感情がないらしい。
さて、そんなこんなな幼少期を過ごした私だが・・・、
自身が育児をするようになって、自分の親(主に母)が結構すごいのでは?と思うようになった。
母は、支配的で厳しく、私にいくつもの禁止と義務を課した。
・甘いものは食べてはいけない
・テレビは30分まで(テレビゲームは不可)
・ピアノを習いなさい
・外で遊びなさい
その他、幼稚園年長時代は毎晩足し算をさせられた。
1+1、1+2〜9+9までを、寝る前に必ずさせられるのだ。しかも、なぜか立ったまま。
小学2年生からは、そろばんも習った。
家にはたくさんの絵本があり、2年生の頃には高学年向けの本が読めるようになっていた。
振り返って思う。
母のやり方は、発達障害児の育児のポイントをそれなりにおさえているではないか。
これで、もっと肉を食べていたなら、もうちょっとは勉強のできる人間になっていたに違いない。
母はなぜ上記のようなことを実施したのか?
それは、母の母、すなわち、私にとっての祖母がそうだったためだろうと推察する。
祖母は、父に言わせれば「神がかっている」ほどに優れた人だったようで、記憶力のすごさに関しては子ども心に尊敬の念を抱いた。
病気らしい病気もせず、自分の歯を多く残し、現在100歳のはず。
食事をとても重視し、砂糖とアルコールを徹底的に嫌った。
テストは100点でなければ許さなかったらしい。
今、我が子は、
・お菓子類やジュースは原則禁止で、
・動画視聴(テレビ・スマホ)を禁止し、
・外で走らせ、
・ピアノを習わせ、
・足し算やら平仮名やら・・・。
母のやっていたこととまったく同じではないか。しかも、これは私が調べた上でやっていることなのだ(足し算、平仮名は除く)。
私の母って、結構すごいのでは?と、今になって思う。
違いがあるとするなら、
母は私がピアノを練習していると、
「騒音で、耐えられない」
と言って、出かけて行ったが、
私は、決してそうは言わないであろうということくらいだ。
いや、いつかは言ってしまうのだろうか?