子どもの「発達障害」に関する感覚が、伸び切ったゴムのようになっていることに気づく

発達障害」の「双子」を育てることは「大変」なのか?それとも、そうではないのか?と考えるとき、「大変ではない」と思うことが、必ずしも「ポジティブ」なことであるとは限らない。

「大変」であると「自覚」しておかなければ、「問題」への意識が「鈍感」になってしまう場合があることに気づく。

 

 

●専門病院での診察にて

先日、専門病院での診察にて、医師に言われる。

「お母さん、大変でしょう。双子ですが、3人世話しているようなものです。」

 

「大変」なことは、全くもって否定しないが、「子育て」なんてどのご家庭でもこんなもんでしょう・・・と思う。

1人っ子も5人兄弟も、それぞれに大変さがあって、何が楽とかないのでは?と思うのだ。

 

確かに、乳児の時の授乳は、「双子」だと「大変」だ。もう2度としたくない。当時は、働いている方がはるかに楽だと思っていた。他にも、「双子」ならではの大変さはあったし、今もあるように思う。

しかし、子どもが4歳になった今は、「双子」であることが突出して「大変」なのかというと、そうでもないのではと思う。

 

そして、我が家の場合は、「双子」であることに加え、「発達障害」の問題もあるわけなのだが、うちの子たちくらいに「元気」なお子さんは、それなりによく見かけるし、もっと大変な「難病」を抱えたお子さんもいるわけで・・・、我が家が取り立てて「大変」かというとそうでもないのでは・・・と思ったりするのだ。

 

 

●療育施設での「保護者懇親会」の案内にて

こちらも、つい先日のことだ。

子どもたちが通所している「療育施設」で開催される「保護者懇親会」の参加に先立ち、先生から、

「学童児の保護者の方と合同で行います。何か相談したいことや、聞いてみたいことはないですか?」

と言われる。

 

相談してみたいことなど全く浮かばなかった。

以前は色々あった。が、今では思う。発達障害」は個人差が大きすぎて、他のお子さんの事例は必ずしも参考にはならない。「懇親会」の参加者に「同じ悩み」を持ち、しかも「解決した」人がいる確率はどれほどだろう。皆無に等しいのではないかと思う。なので、「誰かに聞いたところで・・・」というのが正直なところだった。

 

 

●感覚が「ゴム」のように伸び切っていることに気づく

しかしながら、この2件の事柄は、

 

子育てなんて、誰でも大変でしょう・・・

色々困っていることはあるけれど、そういう子どもなのだから仕方がないでしょう・・・

 

と思っている自分を、客観視するよい機会となった。

かつては「問題」だと思っていた数々のことが、いつの間にか、「当り前」のことになっていることに気づかされたのだ。

 

例えば、

・毎回食事に時間がかかりすぎる(2時間は当たり前。ひどいと3時間)

・自分で食べない

・頭を床に何度も打ち付ける(おかげで、夜は熟睡できず、慢性的に睡眠不足)

・コミュニケーションが取りにくい(何度言っても伝わらないなど)

・常に動き回る

・言うことを全く聞かない

・・・・・。

 

こうしたことが、私自身にとっては、もう意識に上らないほど、ごく「普通」のことになっていた。

 

食事に2時間かかっても、「ああ、また今日も2時間かかったな」と思って終わり。

何を言っても基本的に無視されるが、それも「いつものこと」になり、もはや何も思わない。

子どもが頭を一晩中布団に打ち付けるのをずっと止めていて、よく眠れなくても、「ああ、また今日もか」と思って終わり。

自分自身が疲れていることも、もう今となっては「普通」のことで、特に何も思わないのだ。

 

「大変」なのだが、「大変」なのが「普通」なのだ。

いったい、いつからだろう?

子どもたちの「困った」ことについて、何も感じなくなっており、自分の「感覚」はまるで伸び切ったゴムのようだと思う。

 

「大変」なことを「大変」だと認識しなくなるのは、ある種の「自己防衛」なのかもしれない。意識しなければ「楽」だからだ。

しかし、「大変」さに「鈍感」になっていては駄目なのだ。「問題」であるはずのことが「当り前」のことになってしまうと、「改善しなければ」という気持ちを喪失してしまう。これは、決していいことではない。我ながら、愕然とする。

 

危うかった。

今、気づくことができて、よかったと思う。